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ことば無き社会

昨日のできごとです。駐車場の車の中から携帯で話す声が聞こえてきます!それは相手からの声が筒抜けの状態なんです。クルマに乗って、話してる男の声は聞こえませんが、通話相手の女性の声は、ウィンドウが少し開いてるクルマの中からスピーカーを通してるみたいに、拡声されたかのような勢いで、こちらは窓を閉めているにも関わらず聞こえてきます。

お分かりのように聞きたくない声、騒音でしかありません。はてさてどうしようかと思いました。110番してみるか?直接行って 「しぇからしか~!!」と突っ込むか!思い悩みました。110番はさすがに警察庁もそんなに暇じゃないだろうから!やめときました。

直接行ってもいいんですが、それも一杯飲んでたのでやめました!そこで名案が浮かびました。カーテンを開けて「うるさいぞ!」と言わんばかりに、部屋の照明で消極的・「威嚇」してやりました。そうするとドアを閉める音とともに「ピっ」という電子音でオトコは部屋へ帰ってゆきました。これにて一件落着。

物語はここからです!「ことば無き社会!」 日本だから、みんな同じ考えを共有できる社会だからこそ今回の件は落ち着くことができました。男は自分でもクルマの中から電話することへの罪悪感といえば大げさでしょうが、少なからずあった。そして私もカーテンを開けて「うるさいぞ!」と言ってもいないのですが、そこにはっきりとした意思表示があった。

そこにオトコも「これはいかんのかな?」と、部屋へ電話通話を持ち越した。お互いのことを思いやる気持ちといえば聞こえはいいが、そこんとこに われわれ日本人ならではの「阿吽の呼吸」!というモノがあるのだと思いました。

海に浮かぶ島国と言う、歴史的にも外との関係を永らくしてこなかった国家ならではのドメスティックな、インシデントなんでしょう。韓国大手航空会社令嬢のナッツリターンは、海外ではナッツ・インシデントと呼ばれました。

「ことば無き社会」は、日本国内的に通用するもので、国内の諸事情はフォリナーにとっては奇異に映ったり、「ナンデ!?」と、彼らの目に映る。それは親兄弟のようにお互いが判り合えてる日本人同士だからそれが通用する。

「ことば無き社会」は、「もの言わぬ社会」とも とらえられる。アイコンタクトで通じる単一民族国家の大きな特徴であると思います。しかしそれはこのグローバル社会では通用しなくなってきていることも承知しておいてもいいかもしれません。

かみそん 優しい。

上村クンは優しかった、そんな言葉が日を追うごとに、どこかしこから聞こえ続けている。小六の男児は「キャッチボールをしてくれた、ボールがそれると、だいじょうぶ!?」と、気遣ってくれてた。彼の笑顔からも分かるが、それが似合う少年だった。川崎の多摩川河口の遺体発見現場の花束は日を重ねるごとにその輪は大きくなって、手を合わせる人があとを絶たない。

昨日は18歳の少年の実況見分だった。その前日にこの少年の口から出た言葉が印象的だった。それは「妬み」。

この事件の発端となった加害少年の上村クンへの暴行に対して、上村クンの仲間が18歳少年宅に押しかけ、このときの暴行への謝罪をさせたという。まさにこの18歳少年に対する抗議だ、これは少年たちの世界のルールであり、はっきりとした意思表示だ。そこに大人は口をはさめない、彼ら少年たち独自の世界なのだ。

そして少年は言っている、「上村クンがみんなに慕われている!、それがうらやましかった、チクリへの恨みだった」と。おそらくこの証言は慎重に捜査を続けてきた結果に得られたものだと思われる。そしてこの証言と河川敷の花束の数、上村クンと同年代の少年たちの上村クンに対する想いとが合致する。

「恨み」は、犯罪の階段を駆け上る、恨みは人を殺すための大きな要因になる。恨みは人の自然な感情である、誰にもあるだろう。日常の暴行のなかでそれはエスカレートする。デートDVでも家庭での引きこもり青年の母親への暴行も、それぞれがエスカレートする。

昨日の河川敷でのインタビューでもある母親は「社会の、そして親の責任である!」というが、それはなかなか大人の目に見える形で現れるものではないと思う。子供は大人への警戒心で満たされている、思春期の闇と言うものは、私たちにも経験があるはず。その当時を私も振りかえってみるが、「判らない」部分が多すぎる。そしてこの時期はオトナへの大切な階段を登っている途中なのだ。

最後に上村クンのご冥福を祈ります。